「今日のお昼は、うなぎにしよう」。1日の始まりに、そう決めるだけで力が湧くという人は案外多い。現代なら、羽生善治九段といった棋士の勝負メシとしてもおなじみの「うな重」。明治・大正の時代においては、夏目漱石や太宰治などの文豪も、うなぎが大好物であったという。そう、美味しいうなぎを知っていることは、知的な大人の嗜みともいえるのだ。
もちろん、江戸時代から続く「うなぎ食」の歴史に通じていれば、その一口が、さらに滋味深いものとなる。また絶滅が危惧されるうなぎをいかに保全するか、江戸前の未来に思いを巡らすのは、食べ手にとっても大切なことだ。若干32歳で店を継ぎ、原点回帰とチャレンジを繰り返す、東京・八重洲「鰻 はし本」四代目の橋本正平さん。橋本さんの味つくりを追いながら、江戸前うなぎの過去・現在・未来について、考えてみよう。
江戸前の原点を大切に
天ぷらに寿司、そば。頭に「江戸前」という言葉がつく料理のなかで、その起源とされるのが「うなぎ」だ。そもそも「江戸前」とは、徳川幕府の開府以降、人口が増え続けた江戸の街(または江戸城)の前面、つまりは東側に広がっていた海(現在の東京湾)を指す。
いつしかそこで取れる海産物も「江戸前」と呼ばれるようになり、これが幕府にも献上された。コハダやアナゴ、キスなどが水揚げされたため、それらは天ぷらや寿司のネタとして屋台で提供されるようになる。しかし、そんな屋台グルメの先駆けがうなぎであったことは、江戸時代の蘭学者・平賀源内の書物でも紹介されている。
「ただ江戸時代と、うなぎを取り巻く環境が大きく異なってしまいました。現在の東京湾で、天然うなぎが獲れることは、ほぼありません」
橋本正平さんが1947(昭和22)年創業の東京・八重洲「鰻 はし本」を父から継いだのが、2011(平成23)年。稚魚にあたるシラスウナギの世界的な乱獲で、将来うなぎが絶滅するとの懸念を日本の水産庁が示し始めた頃だった。
そんな逆風の中での船出だったが、橋本さんはこの10年を通して、少しずつ「鰻 はし本」を変革してきた。「江戸前うなぎ」を謳う老舗には、創業は江戸時代という店も少なくない。とくに八重洲・日本橋エリアは古参も多い中、今や人気店のひとつに「鰻 はし本」が数えられるのは、ひとえに橋本さんの地道なチャレンジの賜物だ。
「江戸時代のように、江戸前で獲れたうなぎを捌いて焼くわけにはいきません。けれども当時の調理法を守り続けることは可能です」
橋本さんが挑んだのは、厨房の仕事の変革だった。お客さんのオーダー後にうなぎを捌く調理法に舵を切ったのだ。うなぎが屋台で販売されていた江戸時代、うなぎは客の注文ごとに路上に置かれた板の上で捌かれ、炭で焼かれて販売されたと伝わる。「鰻 はし本」は、そのスタイルへと原点回帰した。
「注文ごとに捌く」を大切に
実は江戸時代から、関東(東京近郊)と関西(大阪や京都など)でうなぎの調理法は異なり、関東では「蒸す」の工程が存在する。江戸前ではうなぎを背開きにして、白焼きにしてから蒸す。これにタレを付けて本焼き(蒲焼き)し、ごはんにのせたら、身の食感がふわふわのうな重の完成だ。いっぽう関西では腹開きにして蒸さずに焼くため、パリッと香ばしい仕上がりに。同じうなぎでも、東西で焼き方が異なるのが興味深い。
「東京のオフィス街にある江戸前のうなぎ屋の場合、忙しいビジネスパーソンに合わせて回転が早くなるように、仕込みで白焼きまで済ませておく店が多いです。『鰻 はし本』も、私の父の代まではその方法でした。今は基本は、注文ごとに一からうなぎを捌いて提供しています」と橋本さんは言う。
実際にオーダー後の調理を見せてもらうと、実に工程の多い作業であることに気づく。注文が入ったら、まず厨房から離れた生簀に必要なうなぎを取りに行く。まな板にうなぎをのせたら目打ちで固定。精緻な包丁仕事で背骨とヒレ、肝を除き、今度は薄い身に串を打っていく。これが「串打ち3年、裂き8年」といわれる、うなぎの下処理で、営業中は「白焼き」「蒸し」「本焼き」なども含めて、厨房スタッフ数人が分業制でおこなう。
蒸したうなぎの身は、素人が調理中に串を触れば崩れてしまうほどのやわらかさ。これを一から捌いて提供するには、熟練の職人仕事に基づく繊細さと大胆さが必要であることが伝わってくる。
「もちろん白焼きまで進めておいたほうが、厨房はラクです。でもそれではうなぎ本来の味わいが、なかなかお客様に届けられません。注文後に捌くことで、脂は脂らしい、身は身らしい、皮は皮らしい旨味が滴ります。蒸すことで生まれる柔らかい食感、本焼きが醸す香ばしさも、鮮やかに舌に伝わるんです」
うなぎの滋味をしっかりと引き出すために、可能な範囲でこの方法を貫いていると橋本さんは言う。
うなぎの滋味を引き出す、新しいタレ
また理想の仕上がりのために、橋本さんは継ぎ足しのタレの配合を変えた。江戸前うなぎのタレは、一般的に上方と比べると、塩が多めでキリッと端正な味わいだが、少し甘みを強めたのだ。
「そば屋さんのかえしや寿司屋さんのシャリと同じく、うなぎ屋にとって、タレを変えるのは一大決断です。砂糖の量を増やすことで、タレがうなぎの旨味に、しっかりとのるようになりました。あとはタレの粘度が増したため、本焼きでうなぎをくぐらせるたびに、うなぎのエキスが壺のタレにより溶けやすくなったと思います」
ちなみに橋本さんのモットーは「タレの味わいは年数より、くぐらせたうなぎの枚数で決まる」だ。
そうして提供された蒲焼きを口にすると、その味わいの力強さに驚かされる。身は際限までふわふわに膨らんでいるが、それでいて噛むと、しっかりと弾力がある。そして、みるみるうちに脂の旨味が口内を満たし、それらの美味しさをほんのり甘いタレがまとめてくれる。あまりにも幸福な食体験に「命をいただくとは、このことか」とハッとさせられるのだ。
「今や貴重な資源であるうなぎだからこそ、本来の調味法で、美味しく召し上がっていただきたいんです」
江戸時代の人々は、きっとこうやって、江戸前の恵みに与っていたのだろう。
「もちろん江戸前うなぎを次代に継ぐために、資源にも配慮せねばなりません。そのためには、トレーサビリティの明確なうなぎを仕入れることが大事です」
“正しい生産者”を応援すれば、環境の改善に繋がると橋本さん。トレーサビリティが保証されたシラスウナギを良質な水環境、しかも無投薬で育てる養鰻場を求めて、全国を飛び回る。また中央大学法学部准教授の海部健三さんや、株式会社エーゼロと「うなぎの未来の相談会」を立ち上げ、うなぎの資源問題の啓蒙活動もおこなっている。
コロナ禍を乗り越えるために
「一から捌く」
「タレを変える」
「正しい生産者を応援する」
江戸前を守り、次代に継ぐべく取り組んできた橋本さん。常連に加えて、東京駅八重洲中央口から歩いて5分の店舗には全国より客が訪れるようになった。しかしその歩みに立ちはだかったのが、新型コロナウイルスだ。
「リモートワークが推奨されると、うちのようなオフィス街立地の店は立ち行かなくなります。当初はテイクアウトに力を入れていたのですが、長期戦を鑑みて、次の展開も考えねばと思っていました」
「土用丼(究極の鰻牛)」に「うなタク丼」、そして「令和の酒泥棒」。「うな重」のような潔さとは対極のユニークな品書きは、いずれもコロナ禍で橋本さんが生み出した商品だ。
「土用丼は、毎年土用期間のみ販売する牛すき煮入りのうな丼を、湯煎で召し上がれるお取り寄せにしました。うなタク丼は『鰻 はし本』がタクシー会社と展開するサービスで、お弁当1個から宅配を承っています」
令和の酒泥棒はうなぎのタレで煮た牡蠣のオイル漬けで、文字通り、酒が進むこと進むこと。蒲焼き or 白焼きのお取り寄せも、藍色のBOXが靴やハットの化粧箱のようなデザインで、いい意味でうなぎ屋らしさを裏切っている。
命を“正しい味”に変えたい
「昔から動物やペットが大好きだったので、活け締めの技術が要求される、うなぎ屋を継ぎたくなかったんです」
実は24歳まで、バックバッカーとしてアメリカ・アジア各国を渡り歩き、DJとしても活動していたという橋本さん。先ほどのお取り寄せBOXは、当時フライヤー制作を担当していた仲間が、デザインしてくれたと話す。
「そして店を継いで感じたのが、やはり命は正しく扱われねばならないということ。そのために今後も江戸前を貫き、後継を育てていくつもりです」。
今も数人の従業員が、橋本さんの店で修行に励んでいる。
時代や環境が変わって、職人の手による江戸前料理は、今や庶民の日常食ではなくなった。しかし「目の前の恵みを有り難くいただく」という行為がもつ普遍性は、私たちの普段の食生活にも通じる。「江戸前」というと、とかく難しく身構えがちだが、うなぎの美味しさと、それを引き出した職人仕事を味わうことが大事。食べた後に身体に力が漲れば、なによりもそれが江戸前を堪能した証だ。
撮影/難波雄史
鰻 はし本
住所:東京都中央区八重洲1-5-10
電話番号:03‑3271‑8888
営業時間:平日11:00~13:30LO、17:00~20:30LO
土曜11:30~14:00LO
定休日:日曜、第1、3、5土曜
CURATION BY
雑誌編集者を経てフリーライター。ライフスタイル誌から週刊誌まで幅広く寄稿。趣味はフィギュアスケート、相撲、サッカー・プレミアリーグなど、様式美のあるスポーツの観戦。