不調や疲れを感じたときには、余計なものを省いたシンプルな食事で心身をリセットするのがおすすめだ。日本には昔から「ハレ」と「ケ」の概念がある。正月や節句といった年中行事や冠婚葬祭など、非日常的な行事が行われるときを「ハレの日」と言い、それ以外の日常を「ケの日」と区別した。「ハレの日」は酒・魚・肉・餅・赤飯などのごちそうが用意される一方、「ケの日」はは肉食を慎み、質素な食事で体の調子を整えていたという。また、仏教には『精進潔斎(しょうじんけっさい)』という考え方がある。大事なことをする際には、「肉や酒を避けて精進料理を食べ、心身を清めて精神を統一する」ことを指す言葉だ。今回は、赤坂の「寺庵(てらん)」で精進料理体験教室を主催する浅尾昌美さんの力を借り、「ミニマルな食事」について考えてみた。
寺庵について
常國寺の衆徒(僧侶)であり、栄養士の資格も持つ浅尾さんは、幅広い栄養学の知識を活かしながら、お寺の中で学ぶ精進料理教室「赤坂寺庵」を主催する。1980年代に相模女子大学食物学科を卒業とともに、栄養士の資格を取得。その後常國寺副住職と結婚した。子どもが小学校高学年のときに東京都港区の地域栄養士会に入会。食育に興味を持って新聞記事を読んでいたところ、京都の東林院の西川玄坊師による精進料理教室が目に入った。「これなら私にもできるかもしれない」と思った浅尾さんは、京都へ赴き、東林院の門を叩いたという。
現在、精進料理教室寺庵を始めて12年になるが、ニューヨークやロサンゼルスでも料理教室を行い、世界中に「いただきます」と「ごちそうさま」という言葉にこめられた和の心を伝えている。
雑念が消え去る精進料理の魅力
禅寺では料理を作る人は、典座(てんぞ)という役職で呼ばれている。宗派や地域によって違いはあるが、典座の目指すところは一緒だ。
「精進料理は仏様に差し上げてそのおさがりをいただくというもの。仏様のことを考えながら作るので、『心をこめて丁寧に料理する』ということは共通しています」と浅尾さんは語る。
精進料理では、化学調味料や電子レンジなどの便利なものは使わず、素材の味を最大限に生かすよう工夫する。精進料理の中で頻繁に登場するのが「ごま」である。とくに手間ひまのかかる「ごま豆腐」を作る場合、すべてのごまがペースト状になるまですり続けるのに、成人男性でも20分以上かかるという。今回は豆腐の白和えに使うごまをすってみたが、不思議と雑念が消えて、瞑想に近い心境になった。もともと「精進」という言葉には「一つのことに励む」という意味もこめられているそうだ。だから仏教では料理を作ることも修行なのである。
食べることも修行の一つ
忙しいと、ついテレビやスマホ、パソコンの画面を見ながら食事をしてしまうという人は多いだろう。食後の予定などを考えながら食事をしていると、何を食べたのか、どんな味だったのかも思い出せなかったりする。寺庵では、目の前の食事と向き合うことを大切にしているため、お膳をお堂に運びこむ。
「食事に集中することは大切です。作り手は、食べ手のことを思って一生懸命作りますし、野菜にも命があります。ですから『いただきます』と感謝して食べる気持ちを忘れてはいけません。人間の知的レベルから考えると、食べることにも感性が働きます。よく見て、味わって食べると脳も活性化します。10分、15分でもいいので、テレビやPCを消して、目の前のものに向き合ってください」
この日の寺庵のメニューは、「けんちん汁」「れんこんのきんぴら」「かぼちゃ団子のそぼろ田楽」「こんにゃくとにんじんの白和え」「里芋のずんだ和え」だった。寺庵では、旬の食材や乾物、調味料を築地場外市場や東京近郊の農家から購入している。産地や作り手のわかる食材を使用することで、素材の味や色、形まで心を配っているという。
浅尾さんは、精進料理が旬の食材を大切にしている理由を教えてくれた。
「いくら人間が月に行く時代でも、地に足をつけ、旬のものを味わうことは大切です。私の師匠である東林院の和尚さんが言ったことの中に、『自然の中で生きる人間は死ぬまで謙虚であれ』という言葉があります。そうでないとぞんざいに食べたり、残したりもします。動物のすごいところは、自分はこのくらいでいいという適量がわかっていることです。ライオンは目の前を鹿が横切っても、お腹がいっぱいであれば襲いません。食事を余らせるのは人間だけです。せっかく知性があるのですから、自分にとって必要なもの、必要な量を考えて食べなければいけません」
考えてみたら、いつもは朝昼晩の食事以外にも、スナック菓子やスイーツなどを口にしていた。空腹でなくとも、なんとなく口さみしく感じて手が伸びてしまうのだ。精進料理が目指すのは「食べて満足感を得ること」だという。これまでは仕事をしながら口に物を詰め込むように食事していたので、気持ちが満たされずに次々と食べ物を手にしていたのかもしれない。
食を見直すことが生活を整えることになる
「現代人はストレス過多です。気を張りつめすぎると、アドレナリン全開で家に帰っても休まりません。頭がリラックスしていない状態だと、ガツガツ肉ばかり食べるようになるんです。夜間に体は寝るモードになっているので、消化液があまり出ていません。そこに味が濃くて塩分が多い料理や、肉、お酒を入れると胃もたれしてしまうのです。結果的に睡眠不足になったり、集中力が欠けて落ち込んでしまったりします。仕事をがんばった分だけ成果がついてくるので、もっと、もっとと思うのでしょうけど。精神的に疲れるとパートナーとケンカしてしまったり、体調を崩して寝込んでしまったりします。ですから意識して『ゆるめる』ことが大切です」
現代人の生活は時間に追われて慌ただしいが、休日は昼まで寝ているのではなく、太陽を浴びてスポーツをしたり、読書をしたりして心やすらぐ時間を持つのが心身の健康には欠かせない。その一つとして食にも向き合うことを浅尾さんはすすめる。何もすべてを手作りする必要はない。「作るのは一品だけでもいいし、炒めるだけの半製品でも構わない」という。大事なのは自分にとって必要なものや量を考え、できる範囲で用意することだ。そして5分でいいから、食べることに集中する。それだけで心が満たされるのを感じるだろう。