今は気になることを検索すれば、たちまち知りたい情報が手に入る便利な時代。見知らぬ国の小さな街も、克明に紹介しているものがすぐに見つかる。自らが旅をしている気分になれる情報に身を任せれば、わざわざ現地に赴く必要はないのではと思えてくるほどだ。だがようやく旅行が現実可能となり、長年の夢であったアイラ島への旅を終えた今、自分自身が実際に現地へ行くということは、頭の中に詰め込んだ情報では得られない経験が、着実に身体に浸透しているのを実感することとなった。
アイラウイスキー、そして蒸留所を巡る旅へ
私が最も好むアイラウイスキーを造り出すアイラ島への旅行の前に、悩んでいることがひとつあった。それは蒸留所のツアーをどうするか、ということだ。スコットランドで蒸留所にはこれまでに何度か滞在したことがあるものの、スタッフが内部を説明とともに案内してくれる「見学ツアー」は好きになれなかったというのが本心なのだ。
「説明がどこも似たようなもので飽きてしまう」「自分のペースで回れない」「スタッフや他の参加者との会話が億劫に感じてしまう」などの理由から、今ひとつ興味が持てなかった見学ツアー。
ウイスキー造りの工程は、どのメーカーも写真や動画とともにウェブサイトで詳しく説明しているのだし、事前にそれを調べ、滞在中はそれぞれの蒸留所の外観を写真に撮り、あとはショップに行くだけで充分ではないかと思ったことは否めない。
だがアイラ島に滞在することはこの先二度とないかもしれない、ツアーに参加し内部をこの目で見て、説明を聞かなければあとで後悔することになるかもしれない…。結局、そんな思いからアイラ島にある9つの蒸留所のうち、スケジュールに合う4つの蒸留所ツアーに参加することにしたのだった。
アイラウイスキーの魅力、そしてその特徴
アイラウイスキーの特徴と言えるのが、ピートの香りのスモーキーさだ。大麦と酵母、水を原料とするウイスキーは、大麦を麦芽にして粉砕し、シンプルなビール状にして煮沸した後に、オーク樽で何年もかけて熟成させて作る。
アイラ島ではかつて大麦を乾燥させるためにピート(泥炭)を燃料としていたため、ピートから出るフレーバーが大麦に浸透し、ウイスキーに独自の風味が生まれることとなった。この燃料に使用されるピート、泥炭とは酸素のない環境下、植物が部分的に腐敗される際に作られる有機物質で、スコットランドではミズゴケやヘザーなどの湿地植生で構成されている。
ピートが燃やされ排出される煙にはクレゾールやオイゲノールなどのフェノールを含むフレーバー化合物が含まれており、そのためアイラウイスキーの独特の風味は「薬品のような」と形容されることが多い。
私も初めてアイラウイスキーのひとつ、ラガヴーリンを飲んだ時の衝撃は未だに忘れられない。それまでバーボンのような柔らかな口当たりのウイスキーを好んでいたせいか、ピリッと舌と喉を刺すような刺激、味覚と嗅覚を包み込み、やがては身体全体にまで染み渡るようなピートの香りに圧倒された。
アイラウイスキーを一度嗜むと、アイラ島産の他のメーカーも次々に試してみたくなる。アイラのウイスキーはピートの香りの強いものから、淡くほのかに薫るものまで種類が多く、どれも魅力的なものばかりだ。
世界中のファンが訪れるアイラ島
アイラ島でウイスキー蒸留は農業に次ぐ主要産業となっている。観光地としても人気が高いが、島を訪れる人々の9割はアイラウイスキーを目的にしていると言っても過言ではないだろう。
実際、私が訪れた時は観光シーズンではないのに蒸留所ツアーも往復路のフェリーも満席という状態で、街中でも、パブやレストランでも観光客の姿を多く見かけた。旅行目的のメインがウイスキーのためか、子供連れの観光客はほぼ皆無であったのも印象的であった。
各蒸留所が行っているツアーは蒸留所内を見学するものや、数種類のウイスキーとペアリングを一緒に嗜むものなど様々な種類がある。見学ツアーの最後には数種類のティスティングがあり、車を運転する人にはボトルに詰めてくれるなどサービスもきめ細かい。
蒸留所の見学ツアーは約1時間。一度ツアーに参加すると、同じ参加者の顔触れを街やレストラン、他のツアーでも幾度か見かけることになる。大きな島ではないし観光名所やツアー時間が限られており、日程が重なることが多いためだ。
普段は決して人付き合いが良いとは言えない私も、2,3度顔を合わせた人たちと自然に会話を交わすようになった。お互いの国のウイスキー事情を話したり、好みのウイスキーを語り合ったり。それぞれ出身国は異なれど、「アイラウイスキー好き」という共通意識があるためか、意外なほど会話は弾んでいった。
消えていく情報ではなく記憶に残る体験を
例えばオクトモア。ブルックラディ蒸留所が生産している、世界で一番ピート香が強いシングルモルトとして知られている。事前に調べていたものの、現地で知り合ったアメリカ人カップルから、これは是が非でも飲むべきウイスキーと諭された。ちょうど本年度のオクトモアが出荷される直前で、多くの店で売り切れていたが、最終日にようやく飲むことができた。
ブナハーブン蒸留所ではショップに滞在していると、やはり顔見知りになった女性に再会。ちょうどツアーを終えたという彼女から「このウイスキーは買って後悔しない特別なもの」と強く太鼓判を押されて小瓶で購入することになった。お勧めされたウイスキーは確かに格別な味であった。
情報を選択し、自身の一部となる知識を求めて旅に出る
アイラ島で得たものは、アイラウイスキーという存在を中心に、人と接して得た知識、そこから派生した経験だ。あれだけ人と関わる旅行が苦手だと感じていたのに、今では次に訪れる旅先で、新たな出会いとそこから得られる発見を期待し始めている。
そして旅行に出る前に欠かせない情報収集。旅をスムーズにするために事前に出来るだけ多くの情報を、と思っていたが、アイラ島の旅を終えると、その認識に少し変化が生まれている。
あの時勧められなければ購入することはなかった、ブナハーブンのウイスキー。これまで飲んだこともないのに、どこかで「アンピートのウイスキーで有名になった蒸留所」という情報を読み、ピートの香りがしないものには興味がないと決めつけていたのだった。
だがブナハーブンのウイスキーを飲んでみると、その奥深い美味しさに驚かされた。あの時勧められて本当に良かったと思い、また情報の一部分だけを切り取って、勝手に解釈していた自分に呆れるばかりだ。
旅先の情報は必須だが、経験してみないと分からないものについては慎重になるべきなのだろう。特に味覚は千差万別、人によって違うため、食べ物や飲み物に関する情報はあえて少ない方が良い。そうでないと情報から生まれた先入観のために、思いがけない出会いを初めから放棄してしまうこともあるのだから。
もっと深く、自分の好きなものを知るために
まだまだ制限はあるものの、ようやく旅行へ行くことが可能になりつつある。だがあのパンデミックの日々がある日突然訪れたように、何が起こるか分からない先行きの見えない世界に住む今、行く機会がある時は臆せず旅に出てみたい。
私にとってアイラ島の滞在はウイスキーの聖地を巡るだけでなく、次の旅への始まりでもあった。これからも興味を掻き立てる場所へ出かけよう。机上で得た知識を頭にインプットするだけでなく、人と接し、自身の記憶に浸透する経験を得るために。
CURATION BY
1992年渡英、2011年よりスコットランドで田舎暮らし中。小さな「好き」に囲まれた生活を求めていたら、夏が短く冬が長い、寒い国にたどり着きました。